“無理に会いに行かなくても、心は届く”|お盆と心の距離の話

帰れないお盆。でも、それって悪いこと?
お盆の時期になると、駅や空港の混雑、帰省のニュースが毎年のように話題になります。

「実家に帰る」「お墓参りをする」ことが当然のように語られる中で、ふと、こんなことを思う人もいるのではないでしょうか。

  • 「今年も帰れなかったな…」
  • 「親に顔を見せられなくて、申し訳ない…」
  • 「お墓参りにも行けない私は、ダメなのかな…」

仕事の都合、遠方の距離、介護、経済的な事情…。理由はさまざまですが、「帰れないお盆」を過ごす人は、決して少なくありません。

それでもなお、どこかに“後ろめたさ”を抱いてしまうのは、「ご先祖様を大切に思う気持ち」があるからこそ。でも、本当に“会いに行かない=悪”なのでしょうか?

この問いに、少しだけ向き合ってみたくなりました。

「会わない」ことも、優しさになるときがある親や家族と、近くにいれば毎日が安心で、幸せかというと、そうとも限りません。

心の距離感は人によって違い、「近すぎて苦しくなる」こともあるし、「ちょっと離れたほうが、関係がうまくいく」こともある。

まるで、ゆるく結ばれた“輪ゴム”のように。

強く引っ張れば切れてしまうし、たるみすぎれば外れてしまう。

けれど、ちょうどよいテンションであれば、柔らかく、でも確かに、つながっていられる。

「会わない」ことが、相手を思っての選択である場合だってあります。
・高齢の両親に負担をかけたくない
・今は自分自身の心を整える時期だから、少し距離を置きたい
・お盆の混雑を避けて、時期をずらして帰ろうと思っている

そんな選択もまた、立派な「優しさのかたち」なのではないでしょうか。

心があれば、想いは届く

お墓に行けなくても、仏壇がなくても、静かに心の中で手を合わせるだけで、故人やご先祖様に想いを届けることはできると、私は信じています。
たとえば、お盆の夕暮れ。

仕事帰りのバスの中で、ふと「おじいちゃん、元気だったかな」と思い出す。

誰もいない部屋で、ふと空を見上げて「ありがとう」とつぶやいてみる。

そんな小さな“心の動き”に、ご先祖様はきっと微笑んでくれる気がします。

供養とは、「何かをすること」よりも、「想うこと」が大切なのかもしれません。

そしてその想いは、目に見えないけれど、たしかにどこかで届いている。

輪ゴムのように、柔らかく、離れていてもちゃんとつながっている。

最後に
お盆は「帰る」ことが全てではなく、「想いを向ける時間」でもあります。
大切なのは、その人を想い、自分の心を整えること。
会えなくても、声が聞けなくても、距離があっても――
心があれば、きっとちゃんと届いています。
今年のお盆、あなたがどんな場所で過ごしていても、
その優しさは、ちゃんとつながっていますように。

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